中国人に強気で交渉した田村(貞次郎)総領事
強いものには媚びへつらい、弱いものには、どこまでも高圧的な態度をとるというものです。
中国人に強気で交渉した田村(貞次郎)総領事
昭和7年(1932年)1月28日に起きた上海事変の1ヶ月前、中国福建省の福州というところで、ある事件が起きました。(以下『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著より一部抜粋)
当時は中国大陸の各地で学生による秘密結社が作られて略奪、殺人が行われており、日本人も被害にあっていました。
ある日本人教師夫妻が標的にされ、「殺す」と脅されていました。
その殺された教師には何も脅迫されるような咎めはなかったのですが、たまたまカモにされてしまいました。
福州の日本総領事は、その脅迫された日本人の警備を中国の福州当局と警察に要請しました。
日本軍ではなく中国当局にです。
中国側に配慮したのでしょう。
要請を受けた中国側はしばらくその教師夫妻の自宅前に中国兵を配置して警備していました。
ところが、ある日、突然その警備兵が消えました。そして、日本人夫妻は襲撃され殺されてしまいました。
中国当局と秘密結社がグルになっていたとしか考えられませんでした。
この事件を聞いて、福州在住のの日本人は怒りに沸騰しました。
田村(貞次郎)総領事は中国当局を呼び、次のように述べました。
「非難するつもりはないが、双方の同意に基づいて警備に落ち度があったから今回の事件が起きたのである。この重大な過失に対し、ご遺族に5万ドルの賠償を願いたい」と。
この田村(貞次郎)総領事の要求に対して、中国当局はのらりくらりとはっきりとした態度を示しませんでした。
そこで、田村(貞次郎)総領事が次のように伝えました。
「よろしい、これ以上申し上げることはない。あとはそちらのご判断次第である。一言申しあげるが、当方はすでにことの詳細を日本海軍に打電し、軍艦数隻がこちらに向かっている。
お分かりかな。熟慮のほどを重ねて申し上げる」と席を立とうとすると、
中国側は、「上に相談してみます」と慌てて態度を改め、
田村(貞次郎)総領事総は「5万ドルを耳を揃えて持ってくるまでは面会無用」と突き放しました。
徹夜で相談した中国当局は、翌日5万ドルを現金で持ってきました。
その後、日本海軍の軍艦が到着しましたが、事は収まっていたので、艦砲射撃をする事なく終わりました。
その後、福州での日本人を標的にしたテロや殺人事件はピタリと止まり、あらゆる反日行動が止まりました。
日本人は、中国人から最高の扱いを受けるようになり、中国人にとって最も尊敬される外国人となりました。
その後、シンガポールに転勤となった田村(貞次郎)総領事に対し、送別会が設けられ、日本人だけでなく中国人からも賛辞が述べられました。
田村(貞次郎)総領事は、それまでの総領事の中で、一番の人気者でした。
福州在住日本人3000人は、何の危害も略奪も受ける事なく、平和に暮らすことができました。
これも、田村(貞次郎)総領事が、中国に対し毅然とした態度をとってくれたおかげです。
(田村貞次郎総領事は、文官高等試験に合格後、大正6年に中国の漢口に赴任した後各地を歴任し、ホノルル総領事を最後に昭和11年に退官されました。)
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