孫文の革命を応援し、その後継者である蒋介石が中国を統一するのを願っていた、松井石根大将の悲劇

昭和12年(1937年)12月、日本軍が南京を陥落し、その後南京城内外で、日本軍による殺戮や強姦、略奪があったなどと宣伝されている時期に、南京にいたジョン・マギー牧師は映画フィルムで街の様子を撮影しました。
斎藤宏幸 2024.05.19
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孫文の革命を応援し、その後継者である蒋介石が中国を統一するのを願っていた、松井石根大将の悲劇

その映像は、ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。

ハロルド・J・ティンパーリは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争とは何か-中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を編集した新聞記者です。また、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の顧問を務めていました。

このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、当時の反日世論の醸成に大きな威力を発揮しました。

終戦後の東京裁判で、マギー牧師は証人として発言しました。

2日間に渡る証言に対し、日本陸軍の松井石根被告の弁護人であるブルックス弁護士が、反対質問しました。

「現行犯をご覧になったことがありますか?」

とブルックス弁護士が問いつめると、二日にわたって証言したことは全部ウソで、結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になりました。

さらに、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれています。(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997))

このマギーフィルムに映し出されている映像は、多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っています。

幼い子供や女性は、日本軍の暴行を受けたと字幕の説明がされていますが、実際にその証拠となる映像がありません。

虐殺場面とされる映像については、字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないので、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが明らかではありません。

そのほとんどが負傷した中国人の治療の様子と死体を写したものです。

このプロパガンダで日本が被った損害はどれほどあったことでしょう。

松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、マギー牧師の証言は嘘であったにもかかわらず、東京裁判でB級戦犯として処刑されてしまいした。

昭和41年(1966年)9月に、田中正明(松井大将の元秘書)ら5人が岸信介元首相の名代として台湾を訪問した際、田中が昭和11年(1936年)に松井大将の秘書として、蒋介石に一度会ったことを伝えました。

すると蒋介石は、「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、手を震わせ、目を真っ赤にして、涙ぐみながら

「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」

「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。

松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と話しました。

終戦から21年経過した時期に、連合国の一員であった蒋介石は、なぜ、このように涙ながらに松井大将に申し訳ないことをしたと語ったのでしょうか?

明治40年(1907年)松井石根大将は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、自ら志願して当時の清国の武官となりました。

その後、三菱財閥の岩崎久弥から10万円の資金提供の協力を取り付け、孫文の辛亥革命を支援しました。

孫文は、蒋介石にとって絶対の忠誠を誓った偉大な革命家でした。

そして、大正元年(1912年)8月25日、袁世凱に対する孫文が行なった第二革命に失敗し、蒋介石は孫文とともに日本に亡命しました。

日本での亡命時期、蒋介石と孫文は、玄洋社の頭山満や松井石根大将から生活の支援を受けていました。

また、昭和2年(1927年)9月、松井石根大将は、中国で苦しんでいる蒋介石を日本に呼び、日本の田中義一首相と面会の席を設け、

「揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐(北京政府、中国共産党軍との戦い)は焦るな。そして共産主義の蔓延には警戒するように。日本政府はその協力を惜しまない」という約束を取り付けました。

このように、松井大将は、孫文と蒋介石の革命の成功を願い、支援を惜しまず協力していました。

しかし、その後日本はその蒋介石率いる中国国民党と対決するようになります。

昭和12年7月の盧溝橋事件を皮切りに、

昭和12年8月第二次上海事変、

昭和12年12月の南京事件

と泥沼の争いに発展していきました。

 松井石根大将は、南京攻略後の昭和13年2月21日、日本政府から中国寄りの思想を持っていると見なされ、更迭され日本に帰国しました。

予備役となった松井石根大将は、昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立して、日中両軍の戦死者を慰霊していました。

終戦後は、陸軍士官学校58期の元将校らが、この興亜観音像を維持してきました。

日中両国が泥沼の戦争をしていた当時、南京大虐殺の宣伝(プロパガンダ)をすることで、戦況を有利にしようと計った蒋介石。

その蒋介石は、自身の行なった宣伝(プロパガンダ)のために、日本亡命時にお世話になり、また、孫文と蒋介石の革命に共感し協力してくれた、松井石根大将を処刑させることになってしまいました。

東京裁判の際、連合国の一員であった蒋介石は、南京大虐殺は捏造でした、などということもできなかったのでしょう。

なぜなら、その捏造のために米国世論が反日、新中国となり、日米開戦へと導いたからです。

孫文の革命に協力し、その後継者であった蒋介石の中国国民党軍による中国統一を願っていた、松井石根大将。

しかし、東京裁判で、南京大虐殺の汚名を受け処刑されてしまいました。

何ということでしょう。歴史は悲劇を生み出します。

昭和21年(1946年)3月4日巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者を招いて最後の盃を交わした際、次のように語りました。

「私はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」

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