ルーズベルト大統領の側近中の側近で、米国の政策に大きな影響を与えたソ連スパイたち

昭和4年(1929年)10月24日、世界恐慌が起きました。その時期の米国大統領は共和党のハーバート・フーバー(Herbert Clark Hoover)氏でした。彼が行った経済対策は失敗に終わり、世界中の経済を悪化させてしまいました。
斎藤宏幸 2024.05.19
誰でも

ルーズベルト大統領の側近中の側近で、米国の政策に大きな影響を与えたソ連スパイたち

そして、昭和8年(1933年)の大統領選挙で、民主党のルーズベルト大統領が就任しました。ルーズベルト大統領(Franklin Delano Roosevelt)は、ニューディール政策を行い、米国経済の立て直しをすることに成功しました。

また、ルーズベルトは米国海軍の軍事力増強を図り、米国民から圧倒的な支持をえました。しかし、米国世論は、中国大陸で日本が行っている軍事行動に対し批判的ではなく、米国は極東に干渉すべきではないというのが大勢を占めていました。

ニューディール政策とは、資本主義政策とは逆の社会主義的な経済政策であります。労働組合の組織活動を積極的に支援したり、政府が財政出動して大規模な公共工事を行うことで、失業者の雇用を確保したりしました。

このニューディーラーと言われる人たちは、終戦後の日本占領軍(GHQ)とともに大規模に日本国内で活動して、終戦後の日本に大きな影響力を与えました。

マッカーシー上院議員(Joseph Raymond "Joe" McCarthy)は、ソ連の共産党スパイが米国内に蔓延していると指摘して、一斉告発を行いました。(赤狩り、マッカーシズム)

マッカーシーの標的は、主に「国務省」と「民主党」でした。

また、昭和23年(1948年)、元共産党員のウィッテカー・チェンバーズが、アルジャー・ヒスは米国共産党のスパイであると告発しました。

アルジャー・ヒス(Alger Hiss)は、昭和8年(1933年)ニューディール政策に共感を持ち、農業調整局に勤務し、その後、スタンレーホーベックのアシスタントとして、「国務省」極東課に勤務。

そして、昭和20年(1945年)2月に「民主党」のルーズベルト大統領の側近として、ハリー・ホプキンスとともにヤルタ会談に同行。終戦後、アルジャー・ヒスは「国務省」の特別政治問題局の責任者も務めました。

ハリー・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins)は、アメリカ陸軍のジョージ・ジョーダン少佐からソ連スパイであり、アメリカの最高機密であった原爆情報を、スターリンに届けていた、と告発されました。

このヤルタ会談(Yalta Conference)では、終戦後の世界秩序をソ連のスターリンと英国のチャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)とともに話し合われた重要な会議でした。

当時の民主党は、第二次世界大戦の世界的英雄であるルーズベルト大統領の側近に、ソ連のスパイがいるはずがない、とマッカーシー上院議員を強硬に攻撃しました。

マッカーシー上院議員は、米国陸軍内にスパイ網が存在すると主張し、陸軍の上層部を告発しました。

昭和29年(1954年)6月9日に全米へ中継された公聴会では、マッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚問された陸軍側弁護士のジョセフ・ウェルチから、逆に告発の内容の信憑性の低さを指摘されて、次のように反論されてしまいました。

「君、ちょっと話を止めて良いかね? 君が私と同じ一弁護士で君の前途を抹殺しようとは思わんが、もう沢山だ。君には品位というものが無いのかね?(Have you no sense of decency )」

全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落の象徴として多く流されることになりました。

その後共和党のラルフ・フランダース上院議員が、昭和29年(1954年)6月11日にマッカーシーに対する譴責決議(けんせき決議)を発議し、アーサー・V・ワトキンス上院議員率いる委員会が組織されマッカーシーに対する調査を開始。 

その後、昭和29年(1954年)12月2日に、上院はマッカーシーに対し65対22で「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として、譴責決議(けんせき決議)を採択されてしまいました。

これによって「マッカーシズム=アメリカにおける赤狩り」は失敗に終わり、ソ連スパイ達は、その後も米国内の「民主党」と「国務省」内を中心とした活動を続けていきました。

スパイ容疑があったアルジャー・ヒスは、昭和25年(1950年)に偽証の有罪判決を下され、5年の懲役が宣告されましたが、平成4年(1992年)に無罪が確定しました。

その後、平成7年(1995年)7月11日、国家安全保障局とFBI、CIAが、情報公開法に基づいてヴェノナ(Venona)文書を、一斉に公開しました。

ヴェノナ(Venona)文書とは、第二次世界大戦中に米国陸軍が、ソ連(モスクワ)と米国内に潜伏していた共産党スパイたちとの暗号通信を傍受していて、それを記録した文書となります。

このヴェノナ(Venona)文書により、かつてマッカーシー上院議員が告発した「国務省」と「民主党」内を中心に潜伏していたソ連スパイ達が、実は本当のスパイであったことが、次々と明るみになっていきました。

昭和20年(1945年)2月、ヤルタ会談で、ルーズベルトはソ連に満州国の港湾と鉄道の権益と樺太(サハリン)南部、千島列島を与えることをスターリンに約束。

また、ソ連は、ドイツ降伏の3ヶ月後に日本に参戦することが決められました。

このヤルタ会談に従い、ソ連はドイツ降伏(5月8日)の3ヶ月後の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告。

9日の午前0時に160万に上るソ連軍が満州と南樺太の国境を越えて怒涛のごとく侵略してきました。

その結果、昭和20年8月の終戦以降に起きた、満州国内でソ連軍による、日本人居留民に対する略奪、暴行(レイプ)、殺人の悲劇が起きてしまいました。

また、同じく、千島列島を防備していた日本軍と日本人居留民の悲劇も起きてしまいました。

日本降伏後、トルーマン大統領により、中国全権特使に任命された、ジョージ・マーシャルは、蒋介石に対し、共産党員を幹部に入れて、毛沢東と連立政権を作るように脅迫しました。

それまで米国は、日本と戦争していた蒋介石に対し、惜しみなく軍事援助をしていました。

しかし、日本の降伏後、中国全権特使に任命されたジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall, Jr)は、それまでの米国の方針を変更し、毛沢東共産党と手を結ばないのなら、軍事援助を打ち切ると脅迫してきたのです。

ジョージ・マーシャルは、水と油を無理やり混ぜようとしたのです。

蒋介石は、ジョージ・マーシャルからの脅迫を拒否。

この結果、国民党軍への米国からの武器供与は一切停止され、国民党軍の士気は一気に低下してしまい、毛沢東共産党軍に敗れてしまいました。

そして、昭和24年(1949年)10月、中国大陸に共産党国家が成立。当時6億人(現在13億人)の中国人が共産党の支配下に入ってしまいました。

ジョージ・マーシャルは、赤狩りの標的にされた、太平洋問題調査会( The Institute of Pacific Relations)に所属しており、「「国務省」内部に共産主義者が巣喰っている」という共和党マッカーシーにより、糾弾されました。

さらに、昭和25年(1950年)6月朝鮮戦争が勃発。

これにより、米国兵36万が朝鮮半島に派兵され、3万8千人の米国兵が死亡という犠牲を払い、朝鮮半島の南半分の共産化を何とか防ぎました。

また、その10年後にベトナム戦争が勃発し、米国は共産国との泥沼の戦いを行いました。

その後も現在に至るまで、沖縄を始め、台湾海峡、南シナ海など東南アジア諸国では共産国の脅威にさらされています。

このような共産国による脅威の始まりは、すべて昭和20年2月にソ連のヤルタ近郊で行われた会談です。

ルーズベルトがスターリンに不用意に約束してしまった、満州国の港湾と鉄道の権益と千島列島、樺太(サハリン)南部を与えるというところから始まっています。

なぜなら、日本が建国した満州国と千島列島、樺太(サハリン)南部は、ソ連共産国に対する防波堤だったからです。

このヤルタ会談には共和党の関係者は同行していませんでした。

米国議会にも知らされず、ルーズベルトの独断で決められました。

GHQのマッカーサー(共和党)はこのヤルタ会談について次のように語っています。

「直接的にも間接的にも、私はこのヤルタ会談には全く関与していない。あの戦争終盤になってのソビエトの極東における対日参戦参入を即すようなことは、私はしない。

私も私の部下もヤルタ会談には出席していない。実は、私はヤルタ会談が開かれていることさえも知らなかった。

私が意見を求められていれば、ソビエトを対日戦にに誘うことなど絶対にしなかった。戦いも終盤を迎え、日本の降伏はもう時間の問題となっていたからだ。」

ヤルタ会談の半年後にスターリンはその会談の約束を破ってしまいます。

ポーランドを共産化し、チェコもハンガリーも東ヨーロッパの国々も続々と共産化していきました。また、5月のドイツ降伏後、東ドイツにベルリンの壁を建設しました。

このスターリンの行動に対し、ハリー・ホプキンスは次のような発言をしています。

「ロシアの狙いは、我が国の外交政策と大きな隔たりはないと信じている」「ロシアの人々は我々アメリカ人と同じように考え、同じように行動する」

ソ連は、8月9日の参戦から9月2日の戦艦ミズーリで行われた、ポツダム宣言受諾の調印式までの、たった24日間の日本との戦いで、満州国と千島列島、樺太(サハリン)南部を手に入れることができました。

24日間の日本軍との戦いといっても、日本は8月10日にポツダム宣言を受諾する旨を連合国に打電し、8月15日に武装解除して降伏してますので、その実態は、ソ連軍による一方的な武器弾薬の接収、シベリアへの強制連行、日本人居留民に対する略奪、強姦(レイプ)、殺人という、軍規なき蛮行となります。

さらに中国を共産化し、朝鮮半島北部も共産化することができました。

スターリンは、ルーズベルトを賞賛しました。なぜなら、スターリンが欲しいものは全て与えられたからです。

このヤルタ会談が行われた昭和20年2月、すでに精神的にも肉体的にも病んでいたルーズベルトは、その病弱な体を無理してこの会談に参加し、2ヶ月後の昭和20年4月に死亡。

「米国の若者を外国の戦場に送ることは決してない」と公約して大統領選挙に当選したルーズベルト。

ルーズベルトは、ソ連スパイであるアルジャー・ヒスや、ハリー・ホプキンスを信頼して側近におき、その助言を元に様々な決断をしていったのです。

(参考図書 『ルーズベルトの開戦責任』Hamilton Stuyvesant Fish著、『東京裁判史観の虚妄』江崎道朗著)

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