大東亜戦争のシナリオを書いた売国奴 尾崎秀実
「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次にくるものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた近衛公爵の責任は重大だ」と問い詰めると、近衛公爵は次のように答えた。
大東亜戦争のシナリオを書いた売国奴 尾崎秀実
「何もかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か目に見えない力に操られていたような気がする。」と。
近衛元首相は、昭和20年2月14日に昭和天皇に次のような上奏文を提出しました。
「我が国内外の情勢は今や共産革命に向かって急速に進行しつつあると存じます。
国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件が具備せられていく観があります。すなわち、生活の困窮、労働者発言の増大、イギリス、米国に対する敵愾心の高揚と親ソ連、軍部内の革新運動、それに便乗する新官僚運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍。
この内、特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動にあります。軍人の多数は我が国国体と共産主義は両立するものなりと信じているもののごとく、軍部革新論の基調も、またここにありと存じます。
職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身にして、その多くは共産主義的主張を受け入れやすい境遇にあり、また、彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているので、共産分子は国体と共産主義の両立論を持って彼らを引き摺り下ろそうとしつつあります。
そもそも、満州事変、日華事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導いたのは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存じます。満州事変当時、彼らは事変の目的は国内改革にあり、と公言したのは有名は事実に存じます。
日華事変当時も、「この事変が長引くのがよろしいが、この事変が解決してしまったら、国内改革ができなくなる」と公言したのはこの中心的人物に存じます。
これら軍内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取り巻く一部官僚および民間有志は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純なる軍人これに踊らされたり、とみて間違いないと存じます。
このことは過去10年間、軍部、官僚、右翼、左翼、の多方面に渡り、交友を持った私が最近、静かに反省して到達した結論にして、この結論の鏡にかけて過去10年間の動きを照らしみるとき、そこに思い当たる節々、多きを感ずる次第に存じます。
私は、この間、二度までも組閣の大命を拝しましたが、国内の相克、摩擦を避けようとして、できるだけこれらの革新論者の主張をを容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの背後に潜める意図を十分看守する能が無いのは、全く不明の致すところとして、何としても申し訳なく、深く反省いたします。」
「日華事変当時も、「この事変が長引くのがよろしいが、この事変が解決してしまったら、国内改革ができなくなる」と公言したのはこの中心的人物に存じます。」と言っていた中心人物とは一体誰のことでしょうか?
レーニンはコミンテルンで共産主義の第一の目標は資本主義国家の政治権力を倒して、共産党独裁政府を樹立することであり、この共産党独裁政治(プロレタリア独裁)を通じてのみ、共産主義社会の実現は可能だと繰り返し述べています。
そして、マルクスレーニン主義に従えば、資本主義国家の権力的支柱をなすものはその国の軍隊である。したがって、この軍隊をいかにして崩壊させるかが共産主義革命の戦略的戦術的第一目標とされる。
その目的達成には、軍隊の内部機構や組織を内部崩壊させることである、そして、資本主義国家同士が互いに戦争し、自己破壊するように導け、と説いています。
コミンテルン第6回大会が1928年(昭和3年)に開催されました。
この中で、⑴自国政府の敗北を助成すること。
⑵帝国主義国家の戦争を自己崩壊の内乱戦に誘導すること。
⑶民主的な方法で共産革命は不可能だから、戦争を通じて共産革命(プロレタリア革命)を行うこと。
つまり、資本主義国(帝国主義国)同士の軍隊を戦わせ、国力を消耗させて、敗戦の手助けをし、次に、内部から共産革命を起こすという
二段階シナリオを描いていました。
このシナリオにきっちりハマってしまった国がありました。
それは日本です。
戦時中、コミンテルンの指示を受けて諜報活動をしていたスパイがいました。
それは、尾崎秀実(おざきほつみ)という人物です。
彼は、大正15年に東京朝日新聞に入社、社会部に配属され昭和2年に大阪朝日新聞に転勤となり、昭和3年、上海支局に特派員として転出しました。
上海支局時代に中国共産党上部組織とコミンテルン本部機関に加わりました。
1935年(昭和10年)に第7回コミンテルン大会が開催されました。
この大会で、中国の敵は日本であり、そのため中国共産党軍への援助を決定し、中国全土に抗日人民戦線運動を巻き起こすべし、と指令しました。
この方針の従い、中国共産党は1936年(昭和11年)抗日救国宣言を発表しました。
「日本帝国軍の侵略に対し、中国国内で内戦をしている時ではない、抗日の名の下に、全中国各階級の民衆を組織して、抗日闘争を展開せよ」
当時の中国は、蒋介石率いる中国国民党軍と毛沢東率いる中国共産党軍が内戦状態でした。
毛沢東からのこの宣言に対し、蒋介石は抵抗します。蒋介石は共産党が大嫌いでした。しかし、蒋介石が張学良により軟禁される事件が起きます。(西安事件)この事件により、中国共産党軍と国民党軍が共同で抗日闘争と展開していきました。(中共合作)
ここで、コミンテルンのシナリオ通りとなります。
蒋介石はイギリスと米国から武器援助を受けてましたので、その蒋介石軍と日本軍が真っ向から戦争することで、帝国主義国家同士の戦争が実現しました。
どちらが勝とうが負けようが、コミンテルンとしては痛手はありません。国力が消耗して、敗戦した時をついて、共産革命を起こせば良いのです。
昭和13年(1938年)1月、駐華ドイツ大使のトラウトマンを仲介にした日本と国民党との和平交渉をしましたが、交渉決裂。近衛首相は「国民党政府を相手にせず」と声明を発表します。
この時、読売新聞の1月19日付けで三木清が次のような論文を投稿しました。
「いよいよ長期戦の覚悟を決めなければならぬ場合となった。それはもちろん、新しいことではなく、事変の当初から既に予測されていたことである。今更改めて悲壮な気持ちになることはない。」
近衛内閣の日華事変の不拡大方針にもかかわらず、陸軍の拡大路線に引きづられ、和平交渉も決裂。そんな時期に、「日華事変は長期戦になるということは、当初から予測されていたこと」と述べています。
三木清を始め共産主義グループは、日華事変の長期戦を支持しました。中途半端に和平となってしまうと、コミンテルンのシナリオ通りの、敗戦後の共産革命が成り立たなくなるので、なんとしてでも日華事変は泥沼の長期戦に持って行きたかったのです。
実は、「国民党政府を相手にせず」という声明後も、和平工作が水面下で行われました。
玄洋社の頭山満などと一緒に孫文の中国革命に協力して、蒋介石国民党首脳部と親しい関係にあった茅野(萱野)長知氏は、日本と支那の和平工作をします。
昭和13年3月に上海のカセイホテルにて国民政府側要人Aと松本蔵次氏が会見。そこで要人Aは「このままで行けば日本と支那は共倒れになる。アジア全体の不幸になる。なんとかして和平の道を講じなければならない」と語りました。
その後、二度目の会見で、茅野(萱野)長知氏の和平案を提出します。
1、日華双方とも即時停戦すること
2、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
3、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に
これを承認するが、具体的には日華両国で協議すること。
国民政府側要人Aは、茅野長知氏の手紙を携えて、漢口にいる国民党の行政院長(首相)である孔祥煕にこの和平案を提出し、茅野(萱野)長知氏あての、孔祥煕からの返事を携えて上海に戻ってきました。
茅野(萱野)長知氏は、その手紙を日本政府と軍部と協議するために上海から東京に向かいました。
板垣陸軍大臣と近衛首相と協議して、両者ともにこの和平案を承認したので、再び上海に向かいました。
そこで、国民党政府の要人Aと会見する予定が、警備の関係で数日遅れることになり、その間、茅野(萱野)長知氏は、松本重治氏にこの和平交渉の経過について話してしまいました。
その後、香港にて、国民党政府考試院(人事院)長である居正夫人が、行政院長(首相)である孔祥煕の代理としてきて、日本と支那(国民党政府)との和平交渉の事務レベルでの下準備はまとまりました。
1、国民党政府側は、首席孔祥煕行政院長、副主席居正、
他要人5名。
1、日本側は、近衛首相又は宇垣外務大臣を首席とし、
陸軍、海軍代表を加えて構成する。
1、場所は香港湾外の日本側軍艦を用いて洋上会見とする。
1、日華両国代表によって行う取り決め内容は、日華双方とも、
即時停船命令を発することに署名すること。
1、停戦後の条件は、両国間で具体的に協議すること。
この時、居正夫人は茅野(萱野)長知氏に次のように語りました。
「戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側からすれば、中国政府の代表五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか?
捕虜にしたのも同然でしょう。これで、日本側の面目が立つでしょう。あとはなんとかなります。」と。
しかし、ここまで和平交渉がまとまったのもつかの間、茅野長知氏と松本蔵次氏が東京に戻り、板垣陸軍大臣と会って報告すると、状況が一変していました。
板垣陸軍大臣は「中国側に全く戦意なし、このままで押せば、国民政府は無条件で降伏する。日本側から停戦協定の申し出をする必要は無くなった」というのです。
茅野(萱野)長知氏が東京に戻る前に、松本重治と国民政府の高宗武が東京に来て、板垣陸軍大臣や近衛首相に、先ほどのような情報を伝えていたのです。
板垣陸軍大臣はその情報を信用し、和平の方針を改めます。そして、近衛首相もそれを受けて、和平交渉は白紙となってしまいました。
その後、茅野(萱野)長知氏は上海の国民党政府の要人Aに会って、説明すると、上海から電報で漢口にある国民党政府に確認をとりました。すると、その高宗武が「日本側に戦意なし、中国が抗日戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という秘密電報が入っていたということです。
高宗武は、全く日本と真逆の情報を送っていたということになります。
板垣陸軍大臣は、ついこの間まで和平に同意していたのに、一体、なぜそんなに簡単に、信用してしまったのでしょうか?
松本重治は尾崎秀実と同じ近衛内閣のブレーンでして、朝飯会でも一緒でした。尾崎秀実から影響も受けていたでしょうし、陸軍軍人へ戦争を継続させるための、ツボをついた交渉の仕方も心得ていたのかもしれません。
この高宗武と松本重治の行動により、日本と国民党との和平交渉は永遠に実現することがなくなり、その後の日本の敗戦への道を決定づける結果となりました。
この時の宇垣一成外務大臣は、この和平工作に期待をかけていました。しかし、陸軍から中国外交の外務省外しの工作を受け、外務大臣を辞任してしまいました。
もし、和平交渉が成立していたら、中国大陸には、共産党国家は成立していなかったかもしれません。
また、日本は南仏印進駐(フランス領インドシナへの進駐)する必要もなかったでしょう。
なぜなら、南仏印進駐は、蒋介石軍へのイギリス、アメリカからの軍事物資援助ルートを抑えることがその目的だったからです。
そして、アメリカ、イギリスと戦争することもなかったでしょう。
なぜなら、日米交渉での最大の懸念材料は、日本陸軍による南仏印進駐だったからです。
そう考えると、この成立一歩手前まで行っていた、蒋介石国民党との和平交渉を決裂させた人物である、高宗武と松本重治、そして、彼らに大きな影響を与えていたであろう尾崎秀実は、日本の運命を大きく狂わせてしまいました。
これも、コミンテルンの描いたシナリオ通りに事が運びました。
昭和13年(1938年)11月と12月に近衛内閣は「東亜新秩序」という考えを発表しました。
この東亜新秩序とは、抗日政策をとる国民党政府を叩き、日本と満州と中華民国の3国により共産国から防衛して、新しいブロック経済を作るという構想でした。
この構想について、尾崎秀実は「中央公論」昭和14年1月号に投稿しています。
これからの戦いの究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定し、そのための戦いを「聖戦」と言い、
「一身を投げ打って国家の犠牲となった人々は絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。平和をもたらすために東亜新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない。」と言い切っています。
蒋介石国民党軍と戦いを継続する大義名分とするために、近衛内閣のブレーン達は「東亜新秩序」なる構想を作り、言論界や世論をリードしていきました。
一体、この東亜新秩序なる理想を、真面目に信じて戦って死んでいった人たちは、どれくらいいたのでしょうか?
実はそれは嘘で、本当の目的はコミンテルンのために共産革命を起こすための戦争だったんだと知ったら、あの世でどう思うでしょうか?
その後、日本軍(関東軍)と蒋介石軍との戦いは圧倒的に日本軍に優勢でしたが、日本の連合国に対する無条件降伏により、蒋介石国民党軍は棚ぼた勝利を勝ち取りました。
その棚ぼた勝利もつかの間、蒋介石国民党軍は毛沢東共産党軍(八路軍)と再び戦争状態となります。日本軍との戦争で、常に前線にて戦ってきた蒋介石国民党軍はかなり戦力を消耗していました。
また、国民党軍は抗日戦線においては米国から十分な軍事物資の援助を受けていたのですが、日本降伏後、米国から中国全権特使に任命されたマーシャル将軍は、米国からの軍事支援物資の実施を意図的に遅らせるなどして、米国からの援助が事実上なくなってしまいました。
それに対し毛沢東共産党軍(八路軍)は、ほとんど前線にて日本軍と対峙したことはなく、主に後方の補給路などに対して、便衣兵(民間人を装って、相手の油断のすきをついて武力攻撃をする軍人)としてゲリラ戦に終始していました。
また、日本軍の武装解除により、ソ連軍が日本軍から奪った武器弾薬を毛沢東共産党軍(八路軍)に横流ししていたので、さらに戦力差は開いてしまいました。
さらに、中国残留日本人のうち、軍人や医師、看護師らがソ連軍により強制連行され、毛沢東共産党軍(八路軍)のために、軍事戦略や飛行機の操縦技術、医療など技術指導しました。
それまで、毛沢東共産党軍(八路軍)は、航空隊や戦車を持ったことがなく、全て日本軍の武装解除後、ソ連軍が日本軍(関東軍)から接収したものでした。
また、空軍を持ったことがないので、林弥一郎少佐以下の関東軍第二航空隊第四錬成飛行部隊を送り込み、東北民主連軍航空学校を設立して航空部隊を養成しました。
また、正規の砲兵隊がなかったので、日向勝を筆頭とした日本人教官の元で、砲兵学校を設立して養成しました。
医師や衛生兵や看護師など戦争に必要な技術を持つ人は日本に帰国させず、国共内戦で勝利した後も長期にわたって徴用しました。
その結果、毛沢東共産党軍(八路軍)は航空隊や砲兵隊、医療班をもつ近代的軍隊となったので、蒋介石国民党軍に勝利することができ、中華人民共和国を建国することができました。
正規軍だった蒋介石国民党軍は、国共合作以前の時、共産匪賊という非合法のゲリラ部隊にすぎなかった毛沢東共産党軍(八路軍)を圧倒的に優位に戦いを進めていました。
しかし、蒋介石国民党軍は、常に前線で日本軍と戦ったため戦力を消耗し、一方、毛沢東共産党軍(八路軍)は、ソ連に連行された日本軍や医師からの技術指導と、日本軍(関東軍)から略奪した武器弾薬などのおかげで、正規軍である蒋介石国民党軍に勝利することができたのです。
これは、コミンテルンのシナリオ(資本主義国同士を戦わせ、消耗させ、敗戦後に共産革命を行う)に忠実に従った結果、勝ち取った勝利となります。
中国共産党は、このような経緯で建国することができたわけですが、いつの間にか、「抗日戦に勝利して建国した」と、全世界に宣伝しています。
このように宣伝(プロパガンダ)することで、戦後賠償の代わりとして、日本からのODAや円借款を受け取る口実にしているのでしょうか?
日華事変から太平洋戦争へと無謀な戦争の道を突き進んで行った、日本の重要な時期に、コミンテルンのスパイである尾崎秀実は、日本の政局の最上層部に参加していました。
尾崎秀実の所属していたゾルゲ機関の目的は、コミンテルンの特殊部門たる諜報機関の日本に置ける組織でした。そして、コミンテルンとソ連共産党とソ連政府の3者はほとんど一体の関係でした。
昭和2年(1927年)世界恐慌の嵐は日本にも押し寄せ、経済は深刻な不景気に悩ませれていました。特に地方の農村部は深刻で、子供を米俵1表、2表で紡績会社などに売って、生活しなくてはならない家庭がたくさんありました。NHKの朝ドラの「おしん」や映画「ああ野麦峠」の世界です。
1915年徳田球一がモスクワから帰国して、日本共産党を結成します。その後、昭和2年(1927年)コミンテルン大会のテーゼにより、非合法的な暴力革命により、資本主義制度の崩壊前夜と認識し、天皇制打倒を中心としたスローガンに共産革命の闘争へと突き進みました。
この情報を入手した内務省は、昭和3年3月15日に一斉に共産党員の検挙を行いました。(315事件)
起訴された人、530名、取り調べを受けた人、5千人に及びました。
その後も二回にわたり一斉検挙を行いました。
この事件は、当時の日本国民を震撼させました。何故ならば、当時は天皇に対して批判的なことを言っただけで、不敬罪として検挙された時代なのに、天皇制打倒をスローガンにして革命を起こすことなど、想像すらできませんでした。そんな思想を持った日本人が数百人、数千人もいたとは、驚きだったのです。
この時代はマルクス主義の全盛期で、出版物は左翼思想のものばかりでした。
また、東京帝国大学をはじめとして、大学内にもマルクスレーニン主義にハマった人がたくさんいて、学生運動の取り締まりにより検挙された人は数万人にも上りました。
昭和2年東方会議により、満州に対し積極的に関与することが決議、
翌年の昭和3年に張作霖学爆破事件が起きます。
この昭和3年は、共産党員一斉検挙(315事件)により革命闘争に対する弾圧が始まった年になります。
大陸進出の動きは加速していきます。
そして国内では旧日本陸軍の青年将校たちによるクーデターが頻繁に起きるようになります。
血盟団事件、515事件、神兵隊事件、埼玉挺身隊事件、士官学校事件、226事件といった未遂事件も含めて、多数のクーデター事件が頻発し、首相や財閥の会長など、政財界の主要な人を暗殺しました。
なぜ、陸軍の青年将校たちは、このような行動をとったのでしょうか?
旧陸軍の兵隊は地方の農民の出身だったり、小市民が多数しめていました。そして、世界恐慌の影響で地方の農村は深刻な不況にあり、その農民出身の陸軍将校たちは、このような状況を作った原因は、政府や財閥にあるとその不満のはけ口にし、暗殺するという暴挙にまで出たのでした。
また、クーデターを指導した人物として、北一輝と大川周明がいます。
北一輝は、青年将校のバイブルと言われた「日本改造法案大綱」を1923年(大正12年)上海にて書きました。その内容はレーニンの革命思想が引用されています。
旧日本軍には軍人勅語があり、日本軍人としての行動規範が書かれてました。万世一系の天皇を国家元首とする日本国の国体を命をかけて守るということを、日本軍人は徹底的に叩きつけられていました。
その陸軍将校たちは、革命思想に燃えてクーデターを起こしましたが、その革命思想は共産革命と共通するものでした。
共産革命はあくまでも天皇制打倒して一党独裁の共産国にすることが目的ですが、天皇制護持の一点を除けば、陸軍の青年将校とコミンテルンの共産革命とは思想が一致していたのです。
226事件の被告、元陸軍中尉新井勲は、次のように述べています。
「陛下の赤子と言われるのに、一面では栄華に暮らしている人たちがいれば、働けど働けどその日の生活に喘ぐものがあった。中でも東北地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では、姉妹が娼婦に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運は治る道理がなかった。」
昭和3年から、アジア共産革命のために活動していた尾崎秀実にとって、この日本陸軍の共産主義的革命思想は、利用価値の高いものでした。
日本が戦争を中途半端でやめず、最後の最後まで戦争を継続していくための施策をどんどん打って行きました。
昭和9年に陸軍と海軍大臣の現役制度が確立しました。(軍閥政治)
これは、政党政治から現役の軍人からそれぞれ大臣を出し、政治に口を出すということを意味しました。
実際、首相が内閣を組閣する際、陸軍の意向に沿わない大臣が組閣の候補に入っていると、陸軍から大臣を出さないと言って拒否されてしまいます。そうすると組閣ができませんので、仕方なく、陸軍の意向に沿った人を閣僚に入閣させるということになります。
事実上、日本陸軍が日本の政治の実権を握ったも同然でした。
そんなことが許されていいのかと思いますが、陸軍はそれまでなんどもクーデターを起こして、首相をはじめ政治家や財閥を暗殺してきましたので、誰も陸軍に逆らえなくなってしまったのです。
昭和13年(1938年)国家総動員法と電力国家管理法が制定されます。これは戦争を継続するために、経済を統制経済にするというもの。企画院の革新官僚が中心となって策定されました。
これにより日本の経済は、軍と官僚の手に握られてしまいました。
また、昭和初期は新体制運動が盛んになりました、これはドイツやソ連のような一党独裁国家がこれからの主流になると予想され、「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもと、昭和15年(1940年)大政翼賛会が結成されました。これにより、非合法の日本共産党を除く全ての政党が解散して、国会議員は大政翼賛会に吸収され、一国一党体制ができました。
与党と野党という構図が無くなり、政府与党の政策に対して反対する政党がなくなり、数百万の陸軍軍人をバックとした一党独裁の軍閥政治となりました。
これで、日本の運命は決まってしまいました。誰も陸軍の暴走を制御することができず、敗戦の道をひた走っていくことになります。
これは、コミンテルンにとって万事好都合な事でした。
ある時、三田村衆議院議員は近衛元首相に「なぜ、あのような翼賛会を作ったのか?」と質問しました。
近衛元首相は次のように答えました。
「なぜ、あんなことになってしまったのか自分でもよく分からない。………この軍部と官僚に実権を握られた翼賛会をなんとかする道はないものか」と。
尾崎秀実は「中央公論」昭和15年12月号で次のような論文を投稿しました。
「第一次近衛内閣の末期に国民再組織の問題が論じられ始めた時から、新政治体制の具体的な提案のうちに満州における共和会の組織や経験が多分に取り入れられているのが見られた。
本格的な段階に達した日本の新体制の中核組織たる大政翼賛会構造、特に協力会議には少なからず類似点が見られる。
ともかくも、満州共和会の10年に近い民衆組織の実践は充分生かされるべきでしょう。
もとより、日本政治の現段階は満州のそれよりもはるかに複雑であり、高度なものであるが、日本民族が、政治的未墾地に試みた貴重なる実験結果は高く評価されなくてはならないはずである。」
このような思想を、事前に陸軍や官僚に植え付けることで、いつの間にか、軍閥に実験を握られた独裁体制という、新体制へ移行することになっていったのでしょう。
昭和16年12月、「言論出版集会結社等臨時取締法」の成立
これにより、戦争反対とか戦争に対して不平不満と公に述べたら、非国民であり国賊であるということになり、厳しく処分されて行きました。
昭和18年2月、「戦時刑事特別法」を改正。
この改正により、内閣を倒す計画や運動をしたものは厳罰に処分され、軍部や政府を攻撃すると「国政変乱罪」という罪で罰せられるようになりました。
これにより、東条英機内閣は、今まで以上に独裁政治を行えるようになり、好きなだけ戦争を継続できる体制を確立しました。
昭和7年2月、上海から引き揚げ後、しばらくゾルゲとの連絡はなありませんでした。昭和9年春に、朝日新聞大阪本社の外報部に配属されていた尾崎のところに、南龍一と名乗る人物が訪ねてきました。
彼は「上海にいた時にとても仲良くしていた外国人今日本に来ているので是非会って欲しい」ということでした。
その外国人というのは、どうやらゾルゲらしいので、後日、「白蘭亭」という支那料理屋で再びその青年と会いました。
その青年は宮城与徳という米国の共産党員で、コミンテルンからの指令を受けて、ゾルゲ機関で諜報活動をしている人物でした。
彼の訪問は、再びゾルゲとの連絡を回復することが目的でした。
その数日後、奈良公園内の指定の場所で、ゾルゲと再開を果たしました。再び、ゾルゲ機関にて諜報活動に協力するように依頼を受けた尾崎秀実は、その依頼を快諾しました。
昭和11年米国カリフォルニア州のヨセミテにて行われた、太平洋問題調査会第6会大会に、日本代表の一人として参加しました。
その時、西園寺公一とは、乗船した大洋丸で同じ船室となり、ヨセミテ滞在中の二週間、寝起きを共にしたので、親しくなりました。
帰国後、朝日新聞社に勤務しているときは、ほとんど毎日、会社に訪問して来ました。
昭和12年4月昭和研究会に参加するようになりました。
昭和13年6月、近衛内閣の時に牛場、岸両秘書官から内閣の嘱託として事務調査をするように頼まれ、引き受けました。牛場秘書官とは高校、大学の同級生でした。
その時に知り得た政治情報を、忠実にモスクワに報告していました。
昭和14年から、近衛内閣の時に、毎週水曜日に朝8時から朝飯会というものがありました。この会の目的は、政治情勢の分析判断や政策の討議をすることでした。メンバーは、蝋山政道、平定蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡邉佐平、西園寺公一、尾崎秀実、松本重治、犬養健などのほか岸秘書官、牛場秘書官でした。
場所は西園寺公爵邸や首相官邸日本間などで行われました。
尾崎秀実は、この会に参加することで当時の最高の政治情報を入手することができるようになり、忠実にモスクワにその機密情報を流していました。
日本陸軍は日露戦争時から仮想敵国をロシア(ソ連)として大陸の北方に戦力を重点的に配置してました。
それが、昭和15年(1940年)、南仏印(フランス領インドシナ(現在のカンボジア、ベトナム、ラオス))に進駐し、さらに翌年の昭和16年、東南アジア諸国(当時はオランダ、イギリス、フランス、アメリカなどの欧米列強に、植民地支配されていました)に進出していきました。
なぜ、長年の仮想敵国であったロシア(ソ連)ではなく、南仏印(フランス領インドシナ)に進駐していったのでしょうか?
蒋介石軍への、アメリカ、イギリスからの軍事物資の補給路を抑える、という理由などいろいろあるでしょうが、尾崎秀実の視点から見ていくと、彼は当時の言論界に積極的に論文を投稿していました。
『改造』昭和16年11月号に次のような記事を投稿しました。
「欧州に戦争が時始まった時、人々はこれをイギリスとドイツの決闘であるとみた。しかしながら、ソ連を巻き込んだ現在では、これを第二次世界大戦と見ることに誰の意義を挟まないだろう。私見では、これを世界史的転換期の戦いと見るのである。
旧世界が完全に行き詰まって、イギリス、アメリカ的世界支配方式が力を失ったところから起こった、世界資本主義体制の不均衡の爆発に他ならないこの戦争が、イギリスアメリカ的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から、社会経済的段階に移行するであろう」
「以上のことに関連して、我々は政治指導部に希望したいことがある。
当局は、日本国民を率いて第二次世界大戦を戦いきる。
勝ち抜けるという大きな目標に沿って、動揺してはいけない。日米外交交渉もかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ、意味があるものといい得る。
また、今日、日本には依然として支那問題を局部的にのみ取り扱わんとする見解が存在している。
これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきであろう。
私見では、第二次世界戦争は「世界最終戦」であろうと密かに信じている。この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」
コミンテルンの方針は、帝国主義国家(資本主義国家)同士で戦わせて、国力を消耗させて、敗戦後に共産革命を起こすというシナリオです。
日本とイギリス、米国を戦わせるために、様々な論文を言論界に投稿して、世論を形成していきました。
その世論に日本陸軍も乗ったのでしょう。
長年のロシア(ソ連)に対する戦力の重点配備の方針を曲げて、東南アジアに進出。その結果、米国にある日本資産の凍結や石油禁輸などの経済封鎖、そして対米戦争に突入するということは十分予想できました。
また、コミンテルンの方針では、中途半端に講和して、戦争終結されてしまっては、共産革命ができにくくなります。したがって、最後の最後まで戦争を継続させる必要があるのです。
尾崎秀実の論文でも、「国民を率いて第二次世界大戦を戦い抜け」、といっています。また、「勝ち抜ける」という楽観視もしていますが、初めから負けを意識させてしまっては国威高揚になりませんので、このように表現していたのでしょう。
「最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、政治家の任務である」とまでいっています。
「最後の最後までアメリカ、イギリスと戦い抜け」と、「そのように国民をリードすることが政治家の務めである」、とあくまでもコミンテルンのスパイというのを表に出さずに、うまく戦意高揚させながら、コミンテルンのシナリオに従うように世論をリードしていきました。
尾崎秀実以外でも、平貞蔵、蝋山政道、細川嘉六、などが「朝日新聞」「中央公論」「改造」などに同様の記事を投稿して、世論をリードしていきました。
彼らは、近衛内閣のブレーンとして尾崎秀実と行動を共にしていた人たちです。
尾崎秀実は、昭和16年(1941年)7月、日本政府や陸軍が南仏印進駐(フランス領インドシナを拠点とした、東南アジアへの進駐)する方針を決めたという報告をゾルゲにしました。
ゾルゲは、モスクワに次のような電報を打ちました。
「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何?」
日本を、イギリスと米国と戦争するように、追い込むことに成功したので、彼の任務は完了したのです。
第3次近衛内閣の時、昭和16年(1941年)10月、尾崎秀実が警視庁特別高等警察に逮捕されました。当初、ドイツ大使館員だったゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求しますが、翌日、近衛内閣が総辞職し、続いて東條内閣となってからは、今度は、この件により、近衛元首相を抹殺することを考えて、徹底的な捜査を命じました。
「私はこの第二次世界大戦の過程を通じて、世界共産革命が完全に達成しないまでも、決定的な段階に達することを確信しております。」と、警視庁の取り調べで尾崎は話しました。
巣鴨拘置所に拘留されていた尾崎秀実とゾルゲは、昭和19年(1944年)11月7日のロシア革命記念日に合わせて、死刑が執行されました。
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