三島由紀夫と楯の会事件
自衛隊員約1千名に対して、檄文をばら撒き、隊員の前で演説をし、その後、割腹自殺をするという壮絶なものでした。
三島由紀夫と楯の会事件
事件当日、益田兼利自衛隊東部方面総監に面会して、「自衛隊員を集めてくれ」と頼みました。
益田総監は三島由紀夫氏の要求を拒否しました。
そこで、彼は、仕方なく総監を縛り、外から妨害の入らないように部屋の扉に椅子等を置いて部屋の中に入れないようにしました。
数人の自衛隊幹部が、三島由紀夫氏を取り押さえようとして彼に近づくと、三島氏は剣を振るって相手の足を傷つけました。
そして、前庭広場に自衛隊員を集めて、檄文をまき、それと同じような内容の演説を約10分間しました。
三島由紀夫氏からの憂国の叫びを聞いた自衛隊員からは、「英雄気取りするな、帰れ」とか「次元が違うぞ、帰れ」
とかヤジが飛んだと当時のマスコミは報じていました。
朝日新聞は、「自衛隊に乱入」「反共と暴力是認」という悪い方に解釈できる大見出しでこの事件を報じました。(昭和45年11月25日、夕刊)
朝日新聞の投書欄には次のような意見を掲載しました。「三島由紀夫の死は、犬死であったと全ての国民がはっきりと言い切ることがこの事件に対する正しい態度であると信ずる」(昭和45年12月1日、朝日新聞)
「三島氏らがクーデターを計画していた」ということを同志の学生が自供した、と報道されましたが、この件に関して山口警察庁警備局長は、昭和45年12月9日の衆議院内閣委員会で、そのような計画はなかったと発表しました。
事件当日は、連隊が富士山麓に演習に出かけていて、連隊長も市ヶ谷には留守でしたし、連隊長と三島氏の面識はありませんでした。
また、檄文を撒いて10分間の演説をしただけで、軍(自衛隊)を動かしてクーデターを起こすということは、現実的ではありません。
憲法改正の希望が失われたというのが、その動機でした。
憲法改正を立党の目標に掲げた唯一の政党である自民党。その自民党の党首であった佐藤栄作元首相は、「私が首相である限り、憲法改正はしない」とはっきり明言していました。
これを聞いた三島由紀夫氏は、愕然とし唯一の希望であった自民党が憲法改正をしないというのでは、日本の将来はどうなってしまうのであろうか、と憂国の士として決起する日を探していたのかもしれません。
当時の保利官房長官に対し、三島由紀夫氏は次のように語っていたと報道されました。
「自分の主張は軍国主義の復活ではなく、乃木将軍の死去で消え去った武士道の再建にあると語っていました。」(昭和45年11月25日「日本経済新聞」夕刊)
三島由紀夫氏が撒いた檄文とはどのような内容だったのでしょうか?以下要約掲載します。
「創立以来20年になって、憲法改正を待ち焦がれてきた自衛隊にとって決定的にその希望(憲法改正)が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され
・‥
占領憲法上の私生児であった自衛隊が、逆に占領憲法を守る軍隊として認知された日だ。
・‥
なんたるパラドッックス(逆説)であろう。自らを否定する(戦力を持たない、交戦権を認めないと定めた)ものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。
男であれば、男のほこりがどうしてこれを認容シエよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一戦を越えれば、決然起ち上るのが男であり、武士である。
我々はひたすら耳を澄ました。しかし自衛隊のどこからも『自ら否定する憲法を守れ』という屈辱的な命令に対する男子の声は聞こえては来なかった。
かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわか
っているのに、自衛隊は声を奪われたカナリアのように黙ったままだった。
・・・
我々は4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自らを冒涜するものを待つわけにはいかぬ。
しかし、あと30分、最後の30分待とう。ともに起って義のためにともに死ぬのだ。
日本を日本の真の姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでも良いのか?
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶっつけて死ぬ奴はいないのか。
今からでも共に起ち、共に死のう。我々は至純の魂をもつ諸君が、一個の男子、真の武士として戦えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」
三島由紀夫氏は、昭和43年12月1日に赤坂・乃木会館で、都学協及び関東学協主催の講演会で次のように語っています。
「昭和43年1月には、ベトコンのテト攻撃(1968年1月30日の旧正月に起きた、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線による南ベトナムへの大攻撃)があり、米国大使館に攻撃をかけたのですが、アメリカは非常に驚きました。
コンピューターを駆使したマクナラマ戦略では、どうしてもベトナム戦争に勝てないのです。アメリカ人は非合理なものがわからないですから。
テト攻撃が終わって、ベトコンが逃げ去った後、日本刀が置いてあったという話を聞きました。本当かどうか知りませんが。おそらく戦争中の日本の軍人の日本刀を大事に持っていたのかもしれません。
ああいう事件が起きますと、あれはベトコンの一つのスピリットが現実を動かしているわけで、あれ自体としては全く無意味な戦争かもしれないけれども、
あそこへ切り込んで死んでしまった人間によって、今年の1月から確かにベトナムの戦争というものは動き出している。
それはどちらが勝った、負けたという問題よりも、現実というものは一つの無駄な方向へと動くことがあるのではないですか。
・・・
例えば、ベトナム戦争反対の焼身自殺というような非合理な行為も、大乗仏教の一つの影響と考えられましょう。
私たちに理解されないようなもの、そしてこういう非合理な要素が歴史を動かしていた。
それが現実を作っていくのですが、非合理な要素が現れた時だけ人の心を打つ、あるいは理解される。現れない時にはわからない。」(『”憂国”の論理』日本教文社)
この講演に対して、谷口雅春氏は次のように解説しています。
「この時にはすでに三島氏は『ベトコンが逃げ去った後に置いてあった日本軍人がおそらく残していったところの一振りの日本刀』に”自分自身”がなることを決意していたと見ても良い。
あそこへ切り込んで死んでしまった人間によって残された日本刀のスピリットがベトナム戦争を動かしている。
その如く三島氏が自刀し、後に残した一振りの日本刀(日本精神を象徴的に表す)が、『後世』日本の歴史を動かす種子となることを期待したのだ。
現在に続く目先の”未来”の結果だけしか見えない科学者や唯物論的歴史家にはそのことは理解できない。
だから、人は”犬死”だとか、”時代錯誤のピエロ”だとかいってあざ笑うであろうが、それは芸術家だけにしかわからない。
・・・
三島氏はその行為が、もっと大なる反響を”後世”に巻き起こしてくれることを信じて散っていったのである」(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)
また、三島氏は昭和43年12月1日に赤坂・乃木会館の講演で、次のように語っていました。
「特攻隊の遺書にありますように、私が”後世を信ずる”というのは、”未来を信ずる”ということではないと思うのです。
ですから、”未来を信じない”ということは”後世を信じない”ということとは違うのです。
私は”未来”は信じないけれども”後世”は信ずる」(『”憂国”の論理』日本教文社)
谷口雅春氏は三島由紀夫氏の行動について次のように解説しています。
「三島氏はマルキシズムの暗黒の渦巻く日本の彼方に、なお自民党という日本的理想を持った政党があり、それが憲法の自主的改正を党是としており、
きっと、やがては明治憲法が復元されて、日本未来の建国の理念と伝統とに基づく祖国が出現するであろうという希望を持って待っていたのであるが、
待てども待てども、その闇は深くして「自主憲法制定」お「明治憲法復元」も、その実現の希望の光がチラとも見えない現実に行き当たって、切羽詰まった情感が沸き起こったのである。」(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)
三島由紀夫氏はかつて自衛隊へ体験入隊したことがありました。
その際に、同じく体験入隊していた大学生が
「国家にイザという時が来たら、僕はいつでも死にます」
というような殉国の言葉を淡々とした心境で語ったので、とても驚きました。
終戦後、20年あまり経過していた日本では、学生運動が盛んであちこちの大学で学生が暴徒化して暴れまわっていた時代でした。
そのような時代にあって、
「国家にイザという時が来たら、僕はいつでも死にます」
という言葉を淡々とした心境で語る大学生がいるということが奇跡に近かったのです。
そして、彼らが皆ある宗教団体に所属していることがわかりました。
三島由紀夫氏は、その宗教団体の創始者である、谷口雅春氏に興味を抱き、その1900万部となったベストセラーである『生命の実相』を読むようになったそうです。
三島氏が決起する前日に、谷口雅春氏に一度会いたいと思って、昭和44年11月22日に、その宗教団体に連絡しましたが、結局会うことができませんでした。
もし、三島氏が谷口雅春氏と会うことができたなら、あのような決起を起こさなかったかもしれません。
谷口雅春氏は次のように語っています。
「その華々しき彼の死が、ベトナムに残された日本軍人の一振りの遣刀が今も強靭な力を持ってベトナム民族をして巨大国アメリカに対抗し得ているように、
自分の遺した殉国の精神が、日本の”後世”に於いて、日本民族に何らかのインスピレーションを与える時が来ることを信じて、割腹の悲壮美の生き方で、肉体生活の幕を閉じることにしたのであった。
しかし、今の佐藤栄作首相の率いる自民党がもしこの巨大な闇の彼方にチラリとでも将来の”自主憲法制定”の希望の光を彼に見せていてくれたならば、
彼はまた別の道を選んだに相違ないと思うと、私は遺憾で、やるせない思いでいっぱいである。」(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)
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