なぜ,日本国憲法は改正できないのでしょうか?
そして、松本国務大臣を筆頭とする憲法問題調査委員会が設立され、憲法草案が作られました。当初は、新しい憲法が日本人の手によって作られようとしていたのです。
昭和20年10月、日本が敗戦した年にGHQのマッカーサーから、幣原首相に憲法を作成するよう指示が出されました。
そして、松本国務大臣を筆頭とする憲法問題調査委員会が設立され、憲法草案が作られました。当初は、新しい憲法が日本人の手によって作られようとしていたのです。
しかし、その原案をまだマッカーサーに提出する前に、毎日新聞にリークされて、昭和21年2月1日付けの一面に記事にされてしまいました。
その内容を知り、マッカーサーが激怒。今度はマッカーサー自らが作成した原案(マッカーサーノート)を元に、GHQの民政局長ホイットニーに憲法の作成を指示しました。しかもその期限は1週間でした。
(なぜ1週間にこだわったのかというと、2月12日がリンカーンの誕生日だったので、その日までに間に合わせたかったためのようです。)
その日本国憲法の作成に関わった民政局の職員は、24人。その誰もが憲法についての知識が全くない素人でした。ましてや日本の歴史や文化についての知識もほとんどありませんでした。
仕方がなく、ドイツのワイマール憲法や、ソ連のスターリン憲法、アメリカの独立憲法など世界各国の憲法の内容をコピーペーストし、マッカーサーノートに沿った形で、1週間後、半ばやっつけ仕事でその草案がまとまりました。
その草案をマッカーサーがチェックして、昭和21年2月、外務大臣官邸にて、吉田外相、松本国務大臣らの元にわたしました。
その時、「もし、この草案を日本国政府が受け入れることができないなら、天皇の身柄を保障することはできない」と脅迫されました。
当時は、連合国から天皇の戦争責任を問うべきとの意見が大勢を占めており、天皇の身柄がどうなるのかはGHQの一存にかかっていました。
また、その草案を渡した後、「しばらく原子力エネルギーの暖に当たってくる。この草案を検討するように」と言ってGHQ民政局の職員は、部屋の外に一旦出て行きました。外の太陽エネルギーのことを、「原子力エネルギーの暖」と比喩した表現を使ったのでしょう。
その後、B29が上空を飛行する音が聞こえ、残された大臣たちは、広島、長崎の原爆投下の悪夢が頭によぎったそうです。
天皇の身柄が拘束されて、戦争責任を追及されるようなことは、決してあってはならない、という思いがすべての閣僚にありました。
仕方なく、断腸の想いで、そのマッカーサーGHQから提示された、屈辱的な憲法草案を受諾する閣議決定をすることにしました。その時、幣原内閣の閣僚は皆、くやし涙を流したそうです。
当時の幣原首相はこう述べています。「我々は、このような憲法を決めてしまって、果たして子々孫々に対して、どう責任を取れば良いのだろうか?」
当時、GHQの民政局にいて、憲法草案を作成した職員たちはみな、この憲法は占領下の暫定的な憲法であり、いずれ日本が独立を果たしたのちは、日本人の手で新しい憲法が作られるだろうと、考えていました。
第9条を担当した、チャールズ・ケーディス氏は「日本国憲法が一度も改正されていないと聞いて驚きました。」と憲法学者の西氏からのインタビューに答えています。
また、国会の章と担当した、ハウゲ氏は「私は日本国憲法は暫定的な性格のものと、理解していました。」と。
内閣の章を担当した、エスマン氏は「私は不幸なことだと思いました。なぜならば、外国人によって起草された憲法は、正当性を持たないと感じたからです。」とインタビューに答えています。
この憲法を改正するにはどのような手続きが必要なのでしょうか?
まず、衆議院と参議院の国会議員、それぞれ総議員の3分の2以上の賛成を受け、国会が発議し、次に国民投票にかけます。その国民投票の過半数の賛成を受け、国民の承認を受け、初めて憲法が改正されます。
このような改正要件は世界中で一番厳しいものとなっています。
そのような厳しい改正要件ということもあり、日本の憲法は一度も改正されることがなく71年もの長い月日が流れてしまいました。
ちなみに他の国の憲法改正の数はどうかというと、ドイツ 59回イタリア 20回フランス 24回米国 6回インド 90回になります。
ではなぜ、マッカーサーはこのような厳しい改正要件をつけたのでしょうか?
当時、敗戦国の日本を占領するにあたり、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)というものを実行しました。
WGIPは何かと言いますと、日本人に罪悪感を植えつけて、二度と連合国(主に米国)に敵対できないような民族に、マインドコントロールしようというプログラムです。
そのWGIPの一環として、新憲法の制定がありました。
日本に軍隊を持たせない、とか家族制度の解体など、それまでの強い日本の源泉となっていた箇所を破壊するような憲法にしました。
また、簡単に改正されたりしないように、その改正要件も厳しくしたのです。
この憲法を平和憲法として、日本人の中に定着させるために、「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」をさせないよう、プレスコードを作り、これを検閲対象にしました。
このプレスコードは、昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約の発効に伴い失効しましたが、今でも、忠実に、このプレスコードを守っている、マスメディアや国会議員の方々などいます。
占領時のマッカーサーの人気は絶大でした。米国の当時のトルーマン大統領から、すべての役職を解任され日本から去る時、マッカーサーの偉業を讃えようと、自由の女神像と同じ規模の銅像を、東京湾に面した浜離宮に立てる計画や、マッカーサー記念館の建設、マッカーサー灯台の建設などの計画があったほどでした。(結局、これらの計画はその後、頓挫して立ち消えとなりました。)
なぜ、これほどまでに当時の日本人はマッカーサーを慕っていたのでしょうか?
民主主義を教えてもらったからでしょうか?戦後の食糧難の時代に、救援物資を送ってくれて飢えをしのぐことができたからでしょうか?
ある、おばあさんから、先日、こんな話を聞きました。
終戦後にマッカーサーが日本に来るまでは、日本女性は、男性の3歩後ろを歩くように言われ、高等教育を受けることもできないような社会でした。
そして、議員を選挙する権利も与えられていませんでした。それがマッカーサーが来てから、選挙権も与えられ、女性でも活躍できるような社会に変わっていった、と。
ちなみに、そのおばあさんは、マッカーサーの息子さんから秋田犬が欲しいと言われたので、秋田犬のブリーダーをしていたから、マッカーサーの宿泊施設まで家族で、秋田犬を届けにいったことがあったそうです。
歴史的な人物の評価というものは、その時代によって変化します。また、人によってもその評価はまちまちです。
平和憲法を日本に残していってくれたマッカーサー。ありがとう、と感謝している人。
改正するのにこんなに厳しい要件をつけ、米国の軍事力を背景に脅迫して憲法を押し付けたマッカーサー。
日本に大きな禍根を残していってくれた、と頭を抱えている人。
マッカーサーの評価については歴史家に任すことにしましょう。
何れにしても、時代が変化しても一度も改正することができない日本国憲法を、次世代に残していくことは、大きな禍根を残すことになるでしょう。
まるで氷河期に対応することができなかった恐竜のように。
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